六人の嘘つきな大学生考察|恋と裏切りの伏線に震える

サスペンス・ミステリー

「結局、誰が本当の嘘つきだったのか?」――『六人の嘘つきな大学生』を読み終えたあと、こんな疑問やモヤモヤを抱えた方も多いのではないでしょうか。本作は、就活という現代的な舞台を使いながら、巧妙な伏線と人物描写で“人の裏表”を浮かび上がらせるミステリです。この記事では、登場人物6人の“嘘”と“本音”、張り巡らされた伏線の意味、そして恋愛感情の交差までを丁寧に読み解きます。さらに、原作と映画の決定的な違いや、結末に込められた「超越」のメッセージにも迫ります。「もう一度読み返したくなる」その理由が、きっと見つかるはずです。

  1. イントロダクション
    1. なぜ『六人の嘘つきな大学生』が話題なのか?
    2. 本記事で分かること(伏線・人物・恋愛・映画との違い)
  2. あらすじの振り返りと構成解説
    1. 就活×ミステリという新ジャンル
    2. 「月の表と裏」という構造美
  3. 登場人物6人の“嘘”と“本音”を徹底分析
    1. 波多野祥吾:好青年か、腹黒大魔王か
    2. 森久保:貧困と後悔、心の闇と優しさ
    3. 九賀蒼太:嶌への想いと犯行の動機
    4. 矢代:誤解と真実の交差点
    5. 羽田・皆本:描かれなかった真実とその意味
    6. 嶌衣織:足の障害・兄・愛と復讐
  4. 伏線の巧妙さとミスリードの妙技
    1. 嶌のインタビュー:誰が“悪人”かを巧みに操作
    2. 波多野の飲酒写真と「宣戦布告」の意味
    3. 「ヨウイチ」の正体とゲームソフトの伏線
  5. 恋愛感情と“好き”の本質
    1. 波多野→嶌:「あなたのことがとても好きでした」
    2. 嶌→九賀:6回中5回の投票の意味
    3. 嶌→波多野:「好青年のふりをした、腹黒大魔王さん」
  6. 原作と映画の違い12選
    1. 月の比喩とその使い方の違い
    2. 嶌の足の障害と兄・相楽ハルキの存在
    3. 鈴江真希、鴻上、選考再実施要望書…割愛された名場面
    4. 映画が示す“表”と小説が描く“裏”の深み
  7. 8年後の再会:成長、それとも変質?
    1. 嶌の“推理ショー”とその目的
    2. 波多野が残した“音声データ”の真価
    3. 「いい人」と「悪い人」を超越した“リアルな人間像”
  8. 結末に込められたメッセージ
    1. 「超越」という言葉の意味とその象徴性
    2. 嶌が妹に伝えた“嘘の好き”が示す余韻
  9. 他作品との比較とおすすめ
    1. 『何者』との比較:就活ミステリの系譜
    2. 『教室が、ひとりになるまで』に見る浅倉作品の魅力
  10. まとめ
    1. 本作が残した問い:「嘘」とは?「正しさ」とは?
    2. 読後・鑑賞後の再読・再視聴を勧める理由

イントロダクション

なぜ『六人の嘘つきな大学生』が話題なのか?

『六人の嘘つきな大学生』は、浅倉秋成さんが描く“就活ミステリ”という斬新な切り口の小説で、2022年の本屋大賞にもノミネートされた話題作です。その人気の理由は、一言でいえば「巧妙な伏線と意外性の連続により、読み終わったあとにもう一度最初から読みたくなる構成」にあります。

舞台は就職活動の最終選考。大手IT企業「スピラリンクス」に残った6人の大学生が「たった1人の内定者を全員で決める」という異例の課題に挑む中で、それぞれの“過去”が次々と暴かれていきます。読み手は彼らを「クズな人間だ」と感じつつも、その印象が途中から反転し、やがて「悪人ではなかった」と気づかされる。この二転三転の展開が、非常に評価されているポイントです。

さらに、2024年には映画化もされ、作品世界が一気に可視化されたことも、再び注目を集めるきっかけとなりました。原作の重厚な心理描写や構造の妙を、映画がどのように表現したかもファンの大きな関心事となっています。

話題性の裏側には、「人はなぜ嘘をつくのか」「表と裏の顔をどう使い分けているのか」という、人間の本質に迫る深いテーマがあるからこそ、読者の共感を呼び、記憶に残る作品となっているのです。


本記事で分かること(伏線・人物・恋愛・映画との違い)

本記事では、『六人の嘘つきな大学生』を深く読み解きたい方、映画を観た後に「あのシーンの意図は?」「原作との違いは?」と気になった方に向けて、以下のポイントを丁寧に解説していきます。

  • 伏線の回収がどれほど巧妙だったか:たとえば、九賀蒼太が嶌衣織のために障害者用スペースに車を停めたことが、序盤ではクズ行動に見え、中盤で誤解だとわかる場面など。波多野祥吾の「ヨウイチ」という伏線も詳しく触れます。

  • 主要キャラクター6人の“嘘”と“本音”:なぜそれぞれが嘘をついたのか。どこまでが演技でどこからが本音だったのか。森久保の「騙されるほうが悪い」というセリフの裏にある自己嫌悪など、心理描写を読み解きます。

  • 恋愛関係の構図とその行方:波多野→嶌、嶌→九賀の感情のすれ違い、そして8年後の嶌の言葉「好きだったよ」が持つ意味を考察します。

  • 映画と原作の決定的な違い:映画では描かれなかった「嶌の障害」「兄・相楽ハルキの存在」「波多野の再選考要望書」「鈴江真希」など、小説にしか存在しない要素と、演出の意図を比較していきます。

読者の多くが感じた「なぜこんな展開になったのか?」「犯人の動機が浅いのでは?」という疑問にも答えながら、本作をもっと味わい深くするための読み方をご提案していきます。


あらすじの振り返りと構成解説

就活×ミステリという新ジャンル

『六人の嘘つきな大学生』は、誰もが一度は経験する「就職活動」を題材にしたミステリ作品です。しかし、それだけではありません。一般的な就活小説にありがちな成功・失敗談や面接テクニックとは一線を画し、「内定者を6人で決める」という極限状況の中で、次々と暴かれる“過去の罪”と“嘘”が、登場人物の本性を浮き彫りにしていきます。

この設定の非日常感が、就活というリアルな題材に見事に溶け込み、読者に強烈な没入感を与えてくれます。波多野が抱えていた「過去の飲酒問題」、森久保の「割引券をせがんだ理由」、矢代の「電車の優先席に座っていた誤解」、それぞれが単なる“クズエピソード”に見えるようでいて、実は他者を思いやった結果だったことが、後に明かされる構成になっています。

このように、最初は「クズ人間ばかりだ」と思わせておきながら、最後に「人間とは多面的である」と思い直させてくれる構成は、まさに“就活×心理ミステリ”という新ジャンルの醍醐味です。


「月の表と裏」という構造美

本作の最も象徴的なモチーフが、「月の表と裏」という言葉です。この比喩は、単なる言葉遊びではなく、物語の構成全体に深く関わっています。

たとえば、映画版では波多野が「月は表しか見せない」と語りますが、原作ではこのセリフは嶌が先に言い、その意味を波多野が何年もかけて自分なりに咀嚼し、行動に移すという描写になっています。つまり、表に見える“善人”としての顔の裏には、誰しも見せたくない“悪意”や“過去”があるというメッセージです。

小説ではこの構造が特に巧妙に使われており、グループディスカッション中の告発で“月の裏”を見せたあとに、嶌による8年後の個別ヒアリングでさらに暗い側面が浮かび上がります。そして物語の終盤、波多野が残した音声ファイルによって、ようやく“月の表”=真実の善意が明らかになるという三段構成になっています。

この「表→裏→表」の構造は、読者が登場人物への見方を何度も覆されるという、非常に完成度の高いストーリーテクニックであり、浅倉秋成さんが“伏線の狙撃手”と呼ばれるゆえんでもあります。人間とは何か?善悪とは何か?というテーマに真正面から向き合った、文学的にも秀逸な作品だと言えるでしょう。

登場人物6人の“嘘”と“本音”を徹底分析


波多野祥吾:好青年か、腹黒大魔王か

波多野祥吾は、一見するとグループ内の中心的存在で、誰からも信頼されているような“好青年”です。しかし物語を読み進めると、その印象が少しずつ崩れていきます。彼のあだ名が「腹黒大魔王」であったことが示すように、表面的な優しさの裏に、合理性や計算高さも感じさせる人物です。

象徴的なのは、グループディスカッション中に自らの“過去の飲酒写真”が暴かれる場面。これは未成年飲酒の証拠であり、致命的なミスともいえる情報ですが、波多野は犯人を九賀蒼太だと即座に見抜きます。しかもその根拠は「九賀は酒が飲めない」という点にあるという、観察眼と記憶力の鋭さを持っています(p.152の記述より)。

さらに波多野は、選考をやり直してほしいと願うほど、他のメンバーをかばおうとする気持ちを持ちつつも、その封筒を最終的に送らずに終わっています(封筒は嶌が見つけます)。これは彼の“善意”と“本音”の狭間で揺れ動いた結果であり、人間らしい弱さでもあります。終盤で明かされる「あなたのことがとても、とても好きでした」という一文からも、彼の誠実な想いと、それが報われなかった悲しさがにじみ出ています。

波多野は、完璧な善人ではありません。ただし、「自分の信じた正義」のもとに動いた人物であり、その結果として好青年にも腹黒にも見える、多面性を持った存在だったと言えるでしょう。


森久保:貧困と後悔、心の闇と優しさ

森久保は、告発の中で「割引券をもらおうとした」「騙されるほうが悪い」と語る場面が印象的で、一見すると自己中心的で倫理観に欠けた人物に思われます。しかし、その裏には深い事情と自己嫌悪が隠されています。

まず、彼の家庭環境は“貧困”であり、お金に対する価値観が一般的な感覚とは異なることが、作品の中で繰り返し示唆されています。嶌から割引券を受け取ろうとしたのも、「少しでも節約したい」という切実な事情からでした。

「騙されるほうが悪いでしょ」と発言した回は特に巧妙に書かれており、読者は最初、森久保が他人を非難しているように感じます。しかし、実際には彼が責めているのは“自分自身”です。後悔や自責の念を抱えているからこそ、「極悪人」とまで自称し、「罵ってよ」と嶌に語るなど、内面の葛藤がにじみ出ています。

彼の“本音”は、「自分を許せないけれど、過去を変えられないことへの諦めと誠意」だと読み取れるでしょう。実は、間違えて高額な飲み放題コースを予約して落ち込んでいたとき、仲間がそれを笑い飛ばすことで救ってくれた、という心温まるエピソードもあり、人との関係においては決して冷酷な人間ではないことがわかります。


九賀蒼太:嶌への想いと犯行の動機

九賀蒼太は、物語の“犯人”として明かされる人物ですが、彼の動機には多くの層があります。一見すると「憤り」に任せて暴走した人物のように描かれがちですが、そこには嶌への複雑な感情や、正義感に似た感情が潜んでいます。

小説の中で、九賀は8年後に冷静なトーンで「当時の自分は若かった」と語っています。そして、「今の自分なら実行には移さなかった」「でも、当時の憤りは否定しない」とも述べています。この冷静な自己分析は、単なる激情型の犯人像ではなく、“過去の未熟さ”と“今の成長”を対比させた人間らしい描写です。

また、彼が嶌に向けた視線――「しばらく見てたでしょ。侮蔑と失望と疑念と、あとなんだろうね」というセリフ(p.88〜89)には、嶌への期待と、それを裏切られたと感じたことによる苦悩が込められています。

彼が障害者用の駐車スペースに車を停めていたのも、嶌の足を気遣ってのことでした。それが“クズ行動”として誤解されることで、読者もまた九賀の「月の裏」しか見えていなかったことに気づかされます。


矢代:誤解と真実の交差点

矢代は、電車の優先席を堂々と2席占領するなど、“自己中心的で無神経な男”という印象を強く与えます。しかし、後半で明かされるように、彼の行動の多くは嶌の足の障害を気遣った結果だったのです。

この“誤解の構造”は、本作の重要なテーマである「月の表と裏」を象徴するものです。矢代の“表”は傍若無人に見えるかもしれませんが、“裏”には実は他人への配慮と優しさがありました。

また、矢代は波多野に対して「お前、嶌のこと好きだろ」と茶化すように言うなど、周囲の空気を読みつつも核心を突くような観察力を持った人物です。感情に素直であるぶん、誤解されやすい存在でもありますが、実際にはグループ内で非常にバランス感覚に優れたキャラクターだといえます。


羽田・皆本:描かれなかった真実とその意味

羽田と皆本は、作中では他のメインキャラクターに比べて描写が少なく、個別の掘り下げがされていない部分もあります。ただし、それが意図的であることは明らかです。

この2人の存在は、“主軸の物語に直接関与しないが、選考という非情な舞台装置に巻き込まれた者たち”としての象徴です。彼らの描写があえて控えめであることによって、物語はより「波多野・嶌・九賀」の三角構造を際立たせています。

物語の中で「月の裏」が描かれないという点においても、羽田と皆本は“表面だけで判断される他者”という存在であり、就活というフィルターを通して見る人間関係の限界も示唆しているのかもしれません。


嶌衣織:足の障害・兄・愛と復讐

嶌衣織は、本作における“語り手”であり、“観察者”であり、“謎を解く者”でもある複雑なポジションに立つ人物です。彼女の存在を理解するうえで欠かせないのが、足の障害と兄・相楽ハルキの存在です。

嶌の足は、兄が関わった事故によって負傷したものです。そしてその兄は、かつて薬物依存症となり社会から叩かれた、歌手の相楽ハルキ。彼と同居していた事実は、当時の嶌にとっては“隠したい過去”でした。その内容が、最終的に告発文に書かれていたことが明かされることで、嶌の心の傷の深さと、それを暴露された苦しさが浮き彫りになります。

それでも彼女は、自らの立場を捨ててでも真相を暴こうとします。その動機の根底には、波多野や九賀、他のメンバーに対する“けじめ”をつけたいという強い信念があります。そして、九賀に対しては恋愛感情に近い複雑な想いを抱いていたことも、小説の描写から読み取れます。彼女が6回中5回、九賀に投票していたという事実が、それを物語っています。

嶌は、過去に囚われたままではいられないと知っていながらも、それを乗り越えることの苦しさを誰よりも理解していた人物です。物語の最後、彼女が「波多野のこと、好きだったよ」と妹に語る場面は、ある意味で彼女なりの“復讐”から“和解”への一歩だったのかもしれません。

伏線の巧妙さとミスリードの妙技


嶌のインタビュー:誰が“悪人”かを巧みに操作

『六人の嘘つきな大学生』では、登場人物たちの“クズエピソード”が次々と暴露されますが、その多くが嶌衣織のインタビューを通じて語られます。このインタビューの構成こそ、本作における最大級のミスリードであり、「誰が本当に悪人なのか?」という問いに、読者すら欺かれていく仕掛けが施されています。

たとえば森久保の回では、「騙されるほうが悪いでしょ」というセリフが象徴的です。この発言を一読しただけでは、彼が他人を責めているように見えるかもしれません。しかし、物語を最後まで読んで振り返ると、この言葉の矛先は自分自身に向いていたことが分かります。森久保はその後、「極悪人」と自称し、「罵ってよ」とまで嶌に語っており、自分の過去に対する深い後悔と嫌悪感を抱えていたことが明らかになります。

さらに、インタビューの中で明かされる“エピソードの切り取り方”にも注目すべきです。九賀が障害者用のスペースに車を停めた話、矢代が優先席に2席分座っていた話など、表面だけを見れば“自己中心的な人間”に見えますが、すべてが嶌の足の障害を気遣った行動だったと分かった時、読者は見事に「騙されていた」と気づかされるのです。

つまり嶌のインタビューは、真実を暴く“記録”であると同時に、印象を操作する“編集”でもありました。その巧妙さが、読者の先入観を利用した構造トリックとして、作品の魅力を最大化しているのです。


波多野の飲酒写真と「宣戦布告」の意味

波多野祥吾が晒された“過去の飲酒写真”は、物語の大きな転換点の一つです。これはただの未成年飲酒問題ではなく、犯人である九賀蒼太の「宣戦布告」だったという構造になっています。

このシーンで注目すべきは、p.152の波多野の内省。「今思えば、あのときのあれは僕に対する宣戦布告だったのだ」と語る場面です。これは、グループディスカッション前の飲み会で九賀が波多野をトイレに呼び出し、詰問した出来事を指しています。

その背景には、九賀が嶌に対して特別な感情を抱いていたことが関係しています。お酒を飲めない嶌が、ぶどうジュース(ウェルチ)をデキャンタ1杯分も飲まされていたことを見た九賀は、嶌が飲酒を強要されていると勘違いし、それを仕組んだ張本人として波多野を責めたのです。この誤解が、後に“復讐”という形で返ってくるわけですが、その動機に感情が深く絡んでいるところが、人間ドラマとしての深みを感じさせます。

飲酒写真は、単なる証拠ではなく、感情のすれ違いが可視化された象徴であり、それが「月の裏」に込められた“怒り”の具現化だったと考えると、本作の人間描写の巧みさが一層際立ちます。


「ヨウイチ」の正体とゲームソフトの伏線

終盤、波多野のロッカーから出てくるゲームソフト「ヨウイチ」は、作品の中でも特にさりげないながら強烈な伏線のひとつです。その正体は、波多野が小学生のころに友人から借りたまま返しそびれたゲームソフトであり、彼が告白に困ったときに挙げた「唯一の悪事」でした(p.122参照)。

このエピソードは、波多野が本質的には“悪事に手を染めない人間”であったことを示す証であると同時に、彼が他の5人に比べて“清廉潔白”な印象を持たれていた理由にもつながります。

それゆえに、最後にロッカーからそのソフトが出てきた瞬間、読者は「ああ、これもちゃんと伏線だったんだ」と気づきます。この瞬間の快感こそが、“伏線回収の心地よさ”の典型であり、本作の構成美を支える重要なピースです。

また、この伏線は、ただの小ネタでは終わらず、波多野という人物が“本当に悪人ではなかった”こと、つまり「月の裏側」を持ってはいても、それを乗り越えようとした誠実な人間だったことを裏づけています。


恋愛感情と“好き”の本質


波多野→嶌:「あなたのことがとても好きでした」

波多野が嶌を想っていたことは、物語の随所で示唆されていますが、決定的なのは、彼が遺したテキストファイルの末尾に記された一文です。「あなたのことがとても、とても、好きでした」という、淡く切ない告白。これは直接的な言葉であると同時に、“もう言えない想い”でもあります。

しかも、波多野はこの告白と同じファイルの中で、嶌にまつわる告発内容をスピラリンクスに提出するべきかどうか、何度も迷っていた形跡も残しています。つまり彼は、「好きだから守りたい」という感情と、「事実を明らかにすべき」という正義の狭間で揺れていたのです。

この複雑な葛藤が、波多野というキャラクターを単なる“好青年”ではなく、“理性と感情の両方で悩める等身大の若者”として描いている点が、本作の人間描写の深さでもあります。


嶌→九賀:6回中5回の投票の意味

嶌が九賀に対して“特別な想い”を抱いていたことは、直接的には描かれていませんが、波多野の妹・芳恵の言葉が決定的なヒントになります。彼女は「嶌さんは6回中5回、九賀さんに投票してた」と語り、「あれは好意の証だったんじゃないか」と指摘します。

これに対して嶌は、「本当に鋭い考察だ」と答えます。この何気ないやりとりにこそ、嶌の本音が隠れていると考えられます。つまり、嶌は九賀に好意を持っていたが、それを直接的には伝えず、選考の票という形で示していたのです。

だからこそ、九賀が犯人であると知ったときの嶌の反応も複雑です。ただの“怒り”や“失望”ではなく、「しばらく見てたでしょ、僕のこと」と九賀に言わせるほど、入り混じった感情をぶつけていたのです。これは“恋愛感情”という単純な一言では片づけられない、信頼や期待、そして裏切りが混ざった想いだったのでしょう。


嶌→波多野:「好青年のふりをした、腹黒大魔王さん」

8年後、波多野の妹・芳恵との対話の中で、嶌は「波多野さんのこと、好きでした」と語ります。しかしこの「好き」は、恋愛的な意味だけではなく、“共に戦った仲間への敬意”や“過去の誤解を超えた理解”といった、より成熟した感情として描かれています。

彼女は最後に、心の中で「ありがとう、好青年のふりをした、腹黒大魔王さん」とつぶやきます。この表現は、波多野が周囲からどう見られていたか、そして嶌自身がどう感じていたかを端的に示すユーモラスでありながら深い言葉です。

つまり、嶌にとっての波多野は、“全てを理解しきれなかった相手”でありながらも、“信じるに値する存在”だったのです。恋心とはまた違う形で、人と人との関係性が時間を経て変化していく様子が、静かに、しかし鮮やかに描かれています。

原作と映画の違い12選


月の比喩とその使い方の違い

本作を象徴する比喩として繰り返されるのが「月の表と裏」です。原作小説では、この比喩を最初に口にするのは嶌衣織です。「月は地球に対して常に同じ面を向けていて、裏側は決して見せない」。その言葉を波多野祥吾が何年も覚えており、彼自身の中で昇華させたうえで「人間も同じ。裏側がある。でも、その裏にもさらに裏があるかもしれない」と語る展開が描かれています。

一方、映画ではこのセリフを逆に波多野が先に発します。そして、月の裏=人の“悪い面”として表現され、波多野がそれを暴く側として行動するように描かれているのです。原作では「悪い面のさらに奥にある“表の顔”を信じたい」という希望を感じるのに対して、映画は“裏を暴いて真実に近づく”という正義感が前面に出ており、比喩の使われ方そのものが方向性を変えています。

この違いは、読者や観客に与える印象に大きく影響します。原作の月の比喩は“人間の多面性への寛容さ”を表し、映画の比喩は“真実の追及と対峙”というやや鋭利な感覚を残します。


嶌の足の障害と兄・相楽ハルキの存在

原作の嶌衣織には、物語のキーとなる“足の障害”が設定されています。これによって彼女は歩行に不自由があり、周囲の登場人物(九賀や矢代)は彼女を気遣って行動していたのですが、読者には最初それが見えず「優先席を占領」「障害者スペースに駐車」など、誤解を誘う“クズエピソード”として描かれていました。

この障害設定が明かされることで、彼らの行動の“裏にあった優しさ”が見えるという構造になっており、まさに本作のテーマである「月の裏と表」が体現されています。

また、嶌の兄・相楽ハルキは原作において極めて重要な人物です。彼はかつて人気歌手でありながら、薬物依存によって転落し、その事件に嶌も巻き込まれていました。足の障害も、兄の起こした交通事故が原因でした。原作ではこの兄と同居していたことが嶌にとっての“見せたくない月の裏”であり、実際にそれが8年前の告発文の内容でもあります。

映画ではこの2点(障害と兄の存在)が完全に割愛されており、嶌の背景がかなりあっさりとした描写に留まっています。これにより、映画では彼女の人物像がやや平面的に映る一方で、原作では読者に深い同情と共感を誘う設定となっています。


鈴江真希、鴻上、選考再実施要望書…割愛された名場面

原作には登場するが、映画では描かれなかった重要なキャラクターやシーンがいくつかあります。その筆頭が、嶌の後輩である鈴江真希です。彼女は嶌の兄・相楽ハルキのファンという設定で登場し、「8年前は世間に叩かれていた相楽も、今では一部に受け入れられている」という時代の変化を象徴する存在でした。嶌の再出発を支える存在としても印象的でしたが、映画ではカットされています。

また、スピラリンクスの人事部長・鴻上も原作では強いインパクトを残しています。彼は8年前の最終選考をモニターしていた立場にあり、「あの時、グループディスカッションを止めるべきだったのでは」と苦悩していたことが語られます。人事側の倫理と現実のはざまで揺れる姿は、物語にさらなるリアリティを与えていました。

さらに見逃せないのが、波多野が遺した“選考再実施を求める要望書”です。彼はスピラリンクスに向けて、自らの内定を辞退してもよいから再選考をしてほしいという文書を準備していたことが、嶌によって明かされます。結局それは提出されなかったのですが、その“出さなかった選択”こそが、波多野という人間の本質を象徴していました。

映画ではこれらの描写が省略され、ややテンポ重視の展開になっているため、原作で味わえる深い“余韻”や“葛藤”が軽減されています。


映画が示す“表”と小説が描く“裏”の深み

本作の「月の表と裏」という構成は、原作と映画で表現手法に大きな違いがあります。映画では、グループディスカッション後に再集合した4人の姿を“キラキラとした現在”として直接描いています。立派な社会人として成長した彼らの姿は視覚的に訴える力があり、前向きなメッセージとして機能しています。

一方、原作では、彼らの現在の姿は直接的には描かれません。8年後の“ヒアリング”によって断片的に語られるだけで、読者の想像に委ねる形を取っています。特に、ヒアリング時の彼らは自己嫌悪や後悔にまみれており、その姿を通して読者は「やはり月の裏が真実だったのか」と思い込まされる構造になっています。

しかし、最後に明かされる波多野の音声データによって、“表の顔=真実の優しさ”が浮かび上がることで、読者はようやく真実を知るのです。この“後から浮かび上がる真実”という構成は、原作ならではの強みであり、読後に「もう一度最初から読みたい」と思わせる仕掛けになっています。


8年後の再会:成長、それとも変質?


嶌の“推理ショー”とその目的

8年後のシーンで、嶌衣織がスピラリンクスの会議室に4人を再集合させて行う“推理ショー”は、映画では物語のクライマックスとして描かれています。ここで嶌は、波多野が残した音声データを提示しながら、一人ずつの“真実”を明かしていきます。

映画ではこのシーンによって、視聴者は4人それぞれの“月の裏”が誤解であったことを理解し、波多野の想いが実を結んだような印象を受けます。彼らが輝かしい姿で再登場するのも、演出的に非常にドラマチックです。

一方で、原作における“推理ショー”はもう少し内省的です。嶌は4人を一度に集めることはせず、個別にヒアリングを重ね、最終的に九賀と1対1で対峙します。この構成により、読者は“犯人が誰か”という視点を最後まで持ち続けることができ、ミステリ的な緊張感が維持されます。

また、原作では嶌が「推理」だけでなく「赦し」や「再評価」を目的として動いている点も重要です。彼女は8年前の真実を“暴く”のではなく、“意味づけし直す”ことに力を注いでおり、それが非常に成熟した行動として描かれています。


波多野が残した“音声データ”の真価

波多野祥吾が残した音声データは、本作における「真実を照らす光」です。このデータには、6人それぞれの行動の“本当の意味”が記録されており、物語の最後に読者(または観客)はようやく“月の表”を見ることになります。

たとえば、矢代が優先席を占領していたのは、嶌の足を気遣っていたからであり、九賀の駐車も同様。森久保の“割引券”の話も、彼なりの苦しさや貧困ゆえの事情があったことが説明されます。

このデータを用いることで、波多野は「月の裏」を知ったうえで、もう一度“表の顔”を信じてみようとしたのです。小説ではこの音声データが明かされるタイミングが非常に遅く、読者は長い間「本当に彼らはクズだったのか?」と疑問を抱きながら読み進めることになります。

結果として、このデータによって読者の認識が反転するわけですが、ここまでの“溜め”が長かった分、その開放感もまた大きなインパクトとなっています。


「いい人」と「悪い人」を超越した“リアルな人間像”

本作が多くの読者の心を掴んだ理由の一つに、「善悪二元論に陥らない人物描写」があります。波多野は決して“完全な善人”ではありません。選考のやり直しを求める要望書を書きながら、それを提出せずに終わったのは、自分の内定に未練があったからかもしれない。その葛藤は誰にでもあるものです。

また、九賀の犯行動機についても、映画では激情的に語られますが、原作では「当時は若かった」「今の自分ならやらない」と冷静に回想しています。この描写により、九賀もまた“過ちを経て成長した人間”として描かれ、読者にとっても身近な存在に感じられます。

嶌の最終的な結論もまた印象的です。彼女は波多野の妹に「好きだったよ」と語り、過去の波多野をまっすぐには肯定も否定もせず、ただ“受け入れる”という選択をします。このときの内心の台詞——「ありがとう、好青年のふりをした、腹黒大魔王さん」——には、優しさと皮肉と寛容さがすべて含まれており、非常に人間的です。

このように、本作が提示するのは「いい人でも悪い人でもなく、“超越した存在としての人間”」であり、読後に「私自身もまた、そうなのかもしれない」と静かに問い返されるような深い余韻を残します。

結末に込められたメッセージ


「超越」という言葉の意味とその象徴性

『六人の嘘つきな大学生』のラストシーンでは、嶌衣織がパンフレットに記された「成長を超え、新たな自分へと超越する」という言葉を皮肉まじりに見つめ、まるで過去の自分のような就活生を次の選考へと送り出します。この「超越」というフレーズは、本作全体のテーマを凝縮した言葉だといえるでしょう。

通常、成長というのは“良い人になる”とか、“悪い面を克服する”ことを意味します。しかし、物語で描かれる人間たちは「良い人でもあり、悪い人でもある」という多面性を持っています。たとえば波多野祥吾は、「あなたのことがとても好きでした」と語る純粋な想いを持ちながら、一方で“再選考を求める要望書”を出すかどうかで悩み、最終的には提出しなかった弱さも抱えていました。

同様に、犯人だった九賀蒼太も「当時の憤りは否定しないが、今ならやらなかった」と振り返ります。それは反省でも後悔でもなく、成長以上の“受容”に近いものです。

「超越」とは、こうした“善悪の二項対立”を超えて、自分の複雑な面も他者の矛盾も、すべて抱き込んで前に進む姿勢を指しているのではないでしょうか。人間は清廉潔白でもなければ、完全な悪でもない。だからこそ、誰もが“月の裏”を持ち、時にそれを見せることで本当の自分を知るという、この物語の根底にある哲学が、この一語に込められているように感じられます。


嶌が妹に伝えた“嘘の好き”が示す余韻

物語のラストで、嶌は波多野の妹・芳恵から「兄のこと、どう思ってました?」と問われ、「好きだったよ」と答えます。このセリフは一見、誠実な回答に聞こえますが、実は非常に“嘘と本音”が交差する名台詞です。

文脈的に見ると、嶌が波多野に対して明確な恋愛感情を抱いていたとは考えにくく、少なくとも就活当時は意識していなかったことが原作で描かれています。それでも、8年後にあえて「好きだった」と語った背景には、波多野の存在が自身にとって“感情の対象”だったことは確かであり、少なくとも敬意と感謝を込めた言葉であったことは間違いありません。

そしてその直後に、嶌は心の中で「ありがとう、好青年のふりをした、腹黒大魔王さん」と呟きます。この一言に含まれるユーモアと皮肉、そして優しさが、読者に深い余韻を残します。“本当の好き”ではないかもしれない、“嘘の好き”かもしれない。けれど、それでも相手の人生に対して、自分の人生に対して、何かしらの“意味”を与える言葉として、この嘘は決して否定されるものではないのです。

ここに、本作のもう一つのメッセージが宿っています。それは、「人は嘘をつく生き物である」という冷静な認識と、それを受け入れる“寛容さ”の必要性です。だからこそ、この「好きだったよ」は単なるラブロマンスではなく、“人と人との最終的な和解”を象徴する美しい嘘だったのかもしれません。


他作品との比較とおすすめ


『何者』との比較:就活ミステリの系譜

朝井リョウの『何者』と本作『六人の嘘つきな大学生』は、ともに“就活”を主題にした作品でありながら、まったく異なるアプローチで読者に問いかけてきます。

『何者』では、SNSや他者の視線に縛られる現代の若者たちの“自己演出”がテーマであり、自分の“仮面”を自覚しているのに外せない葛藤が描かれます。これに対して、『六人の嘘つきな大学生』は、“他者によって誤解された自分”がどのように回復されるか、または“見えなかった善意”がどこにあったかを解き明かす物語です。

つまり、『何者』が“内面から湧き出る自己不信”を描くとすれば、本作は“外部からの評価や誤解との戦い”に重きを置いています。どちらも、“就活”という舞台で人が試されるという点では共通していますが、人間関係の描き方や読後感には大きな違いがあります。

就活ミステリというジャンルの中でも、本作はより“人間の再評価”と“赦し”に焦点を当てた、温度のある作品だといえるでしょう。


『教室が、ひとりになるまで』に見る浅倉作品の魅力

浅倉秋成のもう一つの代表作『教室が、ひとりになるまで』では、学園ミステリと特殊設定(記憶や能力)が組み合わされ、伏線の張り巡らせ方に一層の技術力が感じられます。

『六人の嘘つきな大学生』と同様に、序盤の印象が後半で大きく覆るという構成が特徴であり、読み返すことで「このシーンにこんな意味があったのか」と驚かされる仕掛けが満載です。

本作でも登場人物の“思い込み”が物語を攪乱し、真実が二転三転する展開により、読者は“人間を一面で判断してはいけない”という大切な教訓を得ることになります。

浅倉作品の魅力は、「一人の人間をどう見ていたかが、物語の中で自分自身に跳ね返ってくる」その構造にあります。読み終えた時、登場人物だけでなく、自分自身の価値観や判断にも疑問を投げかけられる感覚。そうした体験を求める方には、どちらの作品も非常におすすめです。


まとめ


本作が残した問い:「嘘」とは?「正しさ」とは?

『六人の嘘つきな大学生』は、就職活動という日常の延長線上にあるシビアな舞台を通して、人間関係に潜む“嘘”と“本音”、そして“正しさ”の曖昧さを問いかける作品でした。

「誰もが嘘をついている」「でも、それは悪意だけじゃない」――こうしたメッセージは、現代社会を生きる多くの人に突き刺さります。たとえば、最終選考で自分に有利な票を入れてもらうために誰かに近づくこと。それは“正しくない”かもしれないけれど、“生きるための知恵”かもしれません。

また、嶌が最後に伝えた「好きだったよ」という言葉のように、“嘘”が時に人を傷つけず、前に進ませることもあります。本作は、その“曖昧な優しさ”を肯定してくれる稀有な物語です。


読後・鑑賞後の再読・再視聴を勧める理由

この作品は、初見では気づけなかった伏線や真意が、再読・再視聴によって鮮やかに浮かび上がってくる構成になっています。

たとえば、九賀のセリフ「侮蔑と失望と疑念と…」の意味、波多野が残した飲酒写真の“真の意味”、嶌の選択に込められた“感情の揺らぎ”。すべてが一度目では断片的に見えたとしても、全体像を知ったうえで再び向き合うと、それぞれの行動や言葉の裏にあった“本音”に気づけるはずです。

そして何より、本作は“人間の見方”を変えてくれる物語です。誰かを「嘘つき」と決めつける前に、少しだけ立ち止まって“裏側”を想像する。そんなまなざしを、自分自身にも、周囲の人にも向けられるようになる――それが、この作品が読者に贈ってくれる最大の“超越”なのではないでしょうか。

 

 

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